追悼 爺殿 安らかに 

親しくしていた高齢の爺が亡くなった。享年93歳。大往生ではある。

月刊書道雑誌社の社長で在職中の取引先だった。取引先と言ってもお金のやり取りはほとんどなく、情報の交換が主で同業者と言った方が適切かもしれない。瘦身で背が高く、最後まで老眼鏡とは無縁で杖も持たない矍鑠(かくしゃく)とした爺だった。

爺の雑誌は5年ほど前に休刊となったが、その後も幾つかの書道団体で顧問とか公募作品の審査員に奉られていて、今年も年初には大阪に出かけたほど元気だった。春先までは埼玉の自宅から毎週のように上京し、開催中の展覧会に顔を出していたようだった。

振り返れば25年の長い付き合い。一献を交わしたのは数10回になるだろう。初めは一緒に出席していた会合の後や展覧会の会場などで偶然に出会った時などに「軽く一杯行こうよ」と声が掛かるパターンだった。昼間から飲み始めたことも一度や二度ではなかった。業界の大ベテランからの情報やアドバイスは貴重であり、誘われるとつい承諾してしまうのだった。得た知識を仕事で大いに活用したことは言うまでもない。

「元気の源はカラオケ」と言って飲み直しに付き合わされる何軒かのカラオケスナックは私も常連になってしまった。「歌いに行こうよ」とカラオケからスタートする飲み会も多かった。

歌はかなり上手かった。年相応の選曲でフランク永井石原裕次郎、東京ロマンチカなど1950~60年代、昭和でいうと30年代の曲がメインだった。本来はポップス系の曲を得意としてしていた私だが、爺に合わせて演歌系レパートリーが増えてしまった。

爺は携帯電話を持たない。それでいて「必ず本人が出るのでケイタイは良い」と、飲みの誘いをはじめとする自分からの連絡はいつも私の携帯に掛けてくるのだった。

付き合った当初は、カラオケに向かう時などに共通の知人「○○さんも誘ってみよう」と手帳を片手に道端の公衆電話や電話ボックスへ駆け込む姿がおかしかった。すでに数が少なくなっていた公衆電話の位置をよく知っていることに感服した。後には私の携帯が公衆電話の代役を務めた。

ここ数年は家族から「あまり出歩くな」と言われているようだった。爺は聞く耳を持たない。だからか家族に会話を聞かれる自宅の電話は使わず、家を出て最寄り駅か途中にある公衆電話から誘ってくるようになった。

私が会社を退職してからも飲みの誘いは続いた。並行して世はコロナの全盛となり爺との飲み会も中断を余儀なくされたが、休業していた飲食店が再開するようになると二人の飲み会は昼酒をメインに再開となった。

しばらくして今度は数軒あった行きつけの最後のカラオケスナックが閉店した。お客と同じく店のオーナーらも高齢だったのだ。爺は歌える場所を失ってしまった。昼から歌えるカラオケスナックを捜してくれと何度も頼まれたのだが要望には応えられなかった。

二人の飲み会は1月が最後だった。そして最後に姿を見たのは偶然に遭遇した3月初めの銀座で、ある書道展の会場だった。元気そうに思えた。「お昼」はどうかと声が掛かったのだが断ってしまったことを今でも悔やんでいる。

何でこの私を慕ってくれたのかは実を言うと最後までよく分からなかった。爺は業界のレジェンド的存在なのだ。在職中にオフィシャルで招いた式典や宴会等は別として、恐れ多くて私から飲みには誘えなかった。

爺からは仕事以外の話もよく聞かせてもらった。なかでも特に面白かったのは少年時代の回想だった。爺は昭和4年生まれで太平洋戦争敗戦の昭和20年(1945年)は16歳。戦時中の旧制中学時代は静岡や九州に疎開し、勤労動員で鉄砲の弾を作ったりしたという。旋盤やノギスは今でも使えると得意そうに語った。この話の詳細はメモしておいたので機会があればアップしたい。

爺殿 うらやましい限りの充実した人生でした。安らかにお休みください。

                                     合掌