晩秋 出遅れの楓の紅葉待ち遠し

近所の池 観光地のような写真が撮れた

11月28日朝8時54分

澄み渡った空とケヤキやコナラの紅葉が鏡面となった池の水に鮮やかに反射する見事な上下のシンメトリー

この日この時間に通りかかったのは偶然である。快晴、無風、低湿度、順光、必要なすべての条件がたまたま整ったようだ。

貴重な1枚になるかもとの予感に浮かれるアラ古希オヤジだった。

 


池の周囲には数本の楓(カエデ)も混じっているのだが楓の紅葉はまだ少し黄色くなったところ。紅葉の代名詞ともいえる深紅のモミジが彩を添えて欲しかったと願うのは贅沢すぎか。

 

夕焼けの街の向こうに浮かぶ富士

横浜から見える夕暮れの富士山

近所にある小高い丘から見た西の空。時刻は午後4時半、日没直後。

この季節になると快晴の日には、夕焼けをさえぎる富士山がシルエットになって浮かび上がる。赤みを帯びた標高3776㍍の富士山とその手前には暗くて青みをおびた1000メートル級の山々が並ぶ丹沢山、さらに手前は闇夜が近づく夕暮れの街

条件が整って3段に色分けされる世界はあたかも前衛の丹沢山塊の山々を従えた大魔王が迫ってくるようにも見える。霊峰富士の面目躍如か。

毎年秋から冬になるとよく見られる光景のはずだが、休日ならともかくとして気も忙しくなる夕刻に落ち着いて西の空を眺めるなんてそうできるものではない。実をいうとこの私も横浜に住居を構えて40年になるが、夕暮れの西の空をゆっくり眺めて「3段の色分け」が分かったのは最近の話であった。

30代の初めから10年ほど住んだマンションはこの丘の近くで、晴れた日はいつも富士山が見えた。眺めは荘厳だった。富士山を見るたびに故郷から遠く離れた関東にいるという現実をかみしめ、望郷の念に駆られたことも思い出す。

 

追記

地図ソフトで撮影位置(横浜市の某所)から富士山を直線で結んでみた。富士山正面の尖った山は大山(おおやま・標高1252㍍)のようだ。この写真では枝に隠れて見えにくいが大山より高い右側に連なる山は左から丹沢山(たんざわさん・同1567㍍)蛭ヶ岳(ひるがたけ・同1673㍍)大室山(おおむろやま・同1587㍍)と推測。そうなると右端の木の枝と枝の間に見えるのが丹沢最高峰の蛭ヶ岳で、その左で枝に被っているのは丹沢山か。

 

アメ横はみんな速足秋の雨

請負仕事の関連で月1~2回のペースで上野東京都美術館に行く。

美術館の後は何となくアメ横へ。この日も2時過ぎに起点の上野から入って一駅分を縦断し、終点の御徒町に抜けるいつもの行程となった。次の仕事はない。金の余裕はともかく時間の余裕がたっぷりあるのが我がアラ古希の世代なのだ。

多くの呑み屋が軒を連ねるメインの隣りの道

この日のアメ横は午後になって雨が降り出したこともあり、繰り出す人は少なめに思えた。ガード下の路地に入ったか、それともどこかの飲食店に潜りこんだのか。

道に面した立ち飲み店は繁盛していた。写真は夕刻のようだが実際はまだ3時過ぎ。

看板や店からの電光が輝く雨のアメ横歩く人もみんな速足だ。急に降り出したからか傘を持たない人も多かった。

最近のアメ横は若者の街になっている。インバウンドの外国人もコロナ前に戻っていっぱい。そしてその外国人もアメ横を訪れるのは若者が中心になっていた。

若者で賑わうエスニックの立ち飲み屋

メイン通りの中ほどにある中田商店。迷彩服マニア御用達

左は目下増殖中のロンドンスポーツアメ横に数店舗。とにかく安い!

いつもならどこか一軒くらいはアパレル店や食品店に立ち寄って無駄なものを買ってしまったりするのだが、濡れた傘を片手に店に入るのが億劫なので今回はパス。そもそもアメ横は立派な傘立ての用意してある店が少ないのだ。

よく行く呑み屋

お出かけで昼をまたぐと当然の如く腹は減る。実は撮影時刻の前後が逆で、アメ横に入ってまず立ち寄ったのはこの居酒屋だった。よく行く店のひとつである。

アラ古希も中盤となると定食や丼が重くなってくる。最近は一人酒の軽昼食が多くなってしまった。至福のひと時なのだ。

そして帰路。帰宅後はいつものように、飲んだ形跡は微塵も残さずの夕飯となった。

 

今年も咲いたチョウセンアサガオ

近所の公園にある花壇的な一角

今年もチョウセンアサガオが開花している

でっかいアサガオ。名前はアサガオだが、本物のアサガオヒルガオチョウセナサガオはナス科。肉厚の葉がいかにもである。ダチュラ(ダツラ)とかマンダラゲとかの異名もある

9月には咲き始めていた

このイガイガでハリセンボンみたいなのは実。中にはいっぱい種が詰まっているはずだ

昨年の今頃も同じところで花を咲かせていた記憶がある

多年草

ネットでは「1年草または多年草」とのあやふやな説明もあった

株によって1年で枯れてしまったり、根が残って翌年も花を咲かせたりするということなのか

別の場所にも一群落があった。去年のハリセンボンの中身が飛来して発芽したのか

検索するとチョウセンアサガオ帰化植物と紹介されていた。野生化している事例は多くあるらしい

このチョウセンアサガオよりもさらに一回り大きい花が下向きにつくキダチチョウセンアサガオ、というのがある。別名エンジェルトランペットともいって同じナス科だが別属だ。我が家の筋向いの家にもあったし、以前は民家の軒先などでよく見かけた。アジサイとツバキの間くらいの背丈で、それぞれが不定期で開花する不思議な木だった。大きい花なのでよく目立った。いつもの早とちりでユリの一種と勘違いしていたことを思い出す

また、チョウセンアサガオ、キダチショウセンアサガオともにどちらも葉や種子には毒性の物質が含まれているという。特に蕾はオクラに似ているので要注意だそうだ

追悼 爺殿 安らかに 

親しくしていた高齢の爺が亡くなった。享年93歳。大往生ではある。

月刊書道雑誌社の社長で在職中の取引先だった。取引先と言ってもお金のやり取りはほとんどなく、情報の交換が主で同業者と言った方が適切かもしれない。瘦身で背が高く、最後まで老眼鏡とは無縁で杖も持たない矍鑠(かくしゃく)とした爺だった。

爺の雑誌は5年ほど前に休刊となったが、その後も幾つかの書道団体で顧問とか公募作品の審査員に奉られていて、今年も年初には大阪に出かけたほど元気だった。春先までは埼玉の自宅から毎週のように上京し、開催中の展覧会に顔を出していたようだった。

振り返れば25年の長い付き合い。一献を交わしたのは数10回になるだろう。初めは一緒に出席していた会合の後や展覧会の会場などで偶然に出会った時などに「軽く一杯行こうよ」と声が掛かるパターンだった。昼間から飲み始めたことも一度や二度ではなかった。業界の大ベテランからの情報やアドバイスは貴重であり、誘われるとつい承諾してしまうのだった。得た知識を仕事で大いに活用したことは言うまでもない。

「元気の源はカラオケ」と言って飲み直しに付き合わされる何軒かのカラオケスナックは私も常連になってしまった。「歌いに行こうよ」とカラオケからスタートする飲み会も多かった。

歌はかなり上手かった。年相応の選曲でフランク永井石原裕次郎、東京ロマンチカなど1950~60年代、昭和でいうと30年代の曲がメインだった。本来はポップス系の曲を得意としてしていた私だが、爺に合わせて演歌系レパートリーが増えてしまった。

爺は携帯電話を持たない。それでいて「必ず本人が出るのでケイタイは良い」と、飲みの誘いをはじめとする自分からの連絡はいつも私の携帯に掛けてくるのだった。

付き合った当初は、カラオケに向かう時などに共通の知人「○○さんも誘ってみよう」と手帳を片手に道端の公衆電話や電話ボックスへ駆け込む姿がおかしかった。すでに数が少なくなっていた公衆電話の位置をよく知っていることに感服した。後には私の携帯が公衆電話の代役を務めた。

ここ数年は家族から「あまり出歩くな」と言われているようだった。爺は聞く耳を持たない。だからか家族に会話を聞かれる自宅の電話は使わず、家を出て最寄り駅か途中にある公衆電話から誘ってくるようになった。

私が会社を退職してからも飲みの誘いは続いた。並行して世はコロナの全盛となり爺との飲み会も中断を余儀なくされたが、休業していた飲食店が再開するようになると二人の飲み会は昼酒をメインに再開となった。

しばらくして今度は数軒あった行きつけの最後のカラオケスナックが閉店した。お客と同じく店のオーナーらも高齢だったのだ。爺は歌える場所を失ってしまった。昼から歌えるカラオケスナックを捜してくれと何度も頼まれたのだが要望には応えられなかった。

二人の飲み会は1月が最後だった。そして最後に姿を見たのは偶然に遭遇した3月初めの銀座で、ある書道展の会場だった。元気そうに思えた。「お昼」はどうかと声が掛かったのだが断ってしまったことを今でも悔やんでいる。

何でこの私を慕ってくれたのかは実を言うと最後までよく分からなかった。爺は業界のレジェンド的存在なのだ。在職中にオフィシャルで招いた式典や宴会等は別として、恐れ多くて私から飲みには誘えなかった。

爺からは仕事以外の話もよく聞かせてもらった。なかでも特に面白かったのは少年時代の回想だった。爺は昭和4年生まれで太平洋戦争敗戦の昭和20年(1945年)は16歳。戦時中の旧制中学時代は静岡や九州に疎開し、勤労動員で鉄砲の弾を作ったりしたという。旋盤やノギスは今でも使えると得意そうに語った。この話の詳細はメモしておいたので機会があればアップしたい。

爺殿 うらやましい限りの充実した人生でした。安らかにお休みください。

                                     合掌

 

うだる暑さでタカサゴユリの蕾は下を向き

いつもの池のある公園

白いユリの花が咲きだしました。最初に発見したのは1週間ほど前、まだ先始めです

7月30日現在で発見したのはこの3輪だけでした

それは去年もレポートしたタカサゴユリ

今年は遅いのかなと思っていたら、開花は昨年とほぼ同じ時期でありました

 

引いたところから撮ったのが下の写真。上写真右と下写真の花は同一の花です

よく見ると花の周りにはこれから咲こうとする大きい蕾を付けた茎がいっぱいありました

何か変です

花は元気なく、蕾に至っては茎が直立出来ずにふにゃりと折れそうな状態のものも

そう、よたっているのです

それもそのはず、横浜は7月初めから暑い日が途切れることなく続いています。特に18日と26日は37度超えという記憶にない猛暑でした。しかもほとんど雨は降らず!干上がっているのです

参っているのは人間だけじゃなかった(当たり前?!)

 

明日からも猛暑は続くようです

タカサゴユリ君 頑張って花を咲かせてください(祈)

 

今や定番!シウマイ弁当は美味かった

昼飯付きの仕事があり、出たのは崎陽軒シウマイ弁当でした

ここ数年は、スタ弁(スタッフ弁当)といえばこれになっています。横浜界隈だけのことかも知れません。アラ古希になって行動範囲が狭くなっているのは確かですから

 

当たり前のことですがシウマイは焼売(しゅうまい)です。ちょっとなまっています

中味です。お馴染みになりました

型で押した塩味の御飯には黒ごまがまぶしてあり、小梅が真ん中にひとつ

メインのシウマイ5個カラアゲ玉子焼きタケノコ煮マグロの漬け焼き杏子切り昆布と生姜の香の物。味付けは濃すぎず薄すぎず。そして見た目の彩も派手過ぎず地味過ぎず。長年にわたる試行錯誤の結果なのでしょうが、見事な構成です

もちろん完食。美味しゅうございました

 

シウマイ弁当といえば、初めて食べたのは30年くらい前の地元の健民祭でした。存在もこの時に知りました。崎陽軒社長の大邸宅が近所にあり、「お付き合い」で慣習になっているものだろうと思ってました。真相は不明です。子供が小学生で健民祭に参加していた数年の間は年1回のレギュラーメニューだったのです

中味は今とほぼ同じだったような。杏子とカラアゲが添えられていたのはしっかりと覚えてます

焼売以外にも色々おかずが入っているので、これは「焼売が多めの幕の内弁当」と解釈していました

今は分かりませんが当時はとんかつ弁当、ハンバーグ弁当、焼き魚弁当とか、食材が名称になっている弁当は名称の食材がメインで、トンカツ弁当ならキャベツ、魚系なら生姜が添えられている程度で実にシンプルだったのです

 

今や全国区になったシウマイ弁当

シウマイ弁当が昼食会場のテーブルに並べられると安心するようになりました

横浜市民になって40年、郷土愛に目覚めたか。否、そうでもありません

アラ古希オヤジの個人的見解ではありますが、味、カロリー、栄養のバランス、全て満点をつけさせていただきます

 

改めまして

美味しゅうございました